学術フロンティア・サブプロジェクト① 異文化研究としての「国際日本学」の構築

国際日本学シンポジウム:「人体と身体性」

学術フロンティア・サブプロジェクト① 異文化研究としての「国際日本学」の構築

国際日本学シンポジウム:「人体と身体性」

  ■ 日時: 2009年11月1日(日)―11月3日(火)

  ■ 場所: アルザス欧州日本学研究所(フランス・キーンツハイム)

  ■ 主催: 法政大学国際日本学研究,フランス国立科学研究学院(UMR8155),
       ストラスブール大学日本学部、アルザス欧州日本学研究所

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  発表の様子                         会場の様子

  (左から 安孫子所長、キブルツ教授、サカエ・ムラカミ=ジルー教授)   

                      

国際日本学研究所[HIJAS]が主催する「国際日本学」を掲げた国際シンポジウムは、2005年のパリ・シンポジウムが第1回であり、その後2007年にアルザス・シンポジウムに姿を変えて、今回で5回目を数える。日本と日本文化とを内外の二つの視点から同時に照射し、そこにこれまでにない立体的な視像を得ていこうという国際日本学の試みは、まずは、そのような方法論から生じる原理的な問題を問うことで展開されてきた(「国際日本学とは何か」2005年、「ことばとことばを越えるもの」2006年、「翻訳不可能性」2007年)。そのような基礎作業を踏まえて、方法論を具体的に適用することの第一弾として、2008年のシンポジウムでは天皇制がテーマとして取り上げられた。続く今回2009年シンポジウムでは身体論(人間の身体、人体の問題)が取り上げられることとなった。

                 

問題の広さ複雑さに鑑みて、今回もシンポジウムに先立って4回の事前勉強会を開催した。それぞれの勉強会は別のページで報告されているので、ここではそれの詳細には立ち入らない。それぞれの勉強会には身体論のさまざま専門家にお越しいただき、レクチャーをしていただいた(その内の3人にはシンポジウムそのものにも参加していただいた)。4回のテーマと講師は以下であった。①200974日「身体と姿勢―東アジアの伝統の中で」(ボルドー大学 アンヌ・ゴッソ氏)、②2009724日「人体を総合的に考える―文化を生む人間・文化に条件づけられる人間」(人類学者 川田順造氏)、③2009930日「3DCGに基づく能の所作単元の分類と型付の解釈」(法政大学デザイン工学部 岩月正見氏)、④2009109日「奇形の背後にあるもの―伝統的なまた現代の視覚メディアにおける妖怪図」(法政大学グローバル教養学部 ジリア・パップ氏)

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 さてこのような準備も経ての11月初3日間のアルザス・シンポジウムでは、日本(法政大学)から参加の8名―発表順で、小秋元段、小林ふみ子、ジリア・パップ、相良匡俊、川田順造、山中玲子、岩月正見、安孫子信―と、ヨーロッパから参加の8名―同じく発表順で、Rajyashree Pandey(ロンドン大学)、Josef Kyburz(パリCNRS)、Peter Ackermann(エルランゲン=ニュルンベルグ大学)、Lucia Dolce(ロンドン大学)、Yves Cadot(パリ第7大学)、Martina Ebi(チュービンゲン大学)、Christian Oberlaender(ハレ=ヴィッテンベルグ大学)、Christian Steineck(チューリッヒ大学)―の計16名が、全部で15個の研究発表を行い(1個が2名による共同発表)、また各発表後には参加者間で活発な議論を展開した。

見開きに掲載のプログラムを参照していただけば済むことではあるが、今回の発表の内容を確認してみたい。第一に発表の題材を整理してみれば以下となる。まず人間の身体が、文学的に文字で表現された場合を扱ったものが2編あった―Pandey(源氏物語)、小秋元(軍記物語)。また図象・絵画で表現された場合を扱ったものは3編である―小林(あぶな絵)、Kyburz(美術史)、パップ(妖怪図)。さらに演劇・音楽・スポーツでの人体の現れを扱ったものが3編あった―相良(明治の音楽教育)、Cadot(柔道)、山中・岩月(能)。さらに宗教での現れを扱ったものは1編である―Dice(日本仏教)。そして医学・医療、またそれとつながる倫理・哲学での身体の扱いを取り上げたものは3編である―安孫子(西周の身体論)、Oberlaender(解剖学の成立)、Steineck(生命倫理)。最後に、日常的な身体使用、身体に関わる言語使用の観察から論じたものが3編あった―Ackermann(ボディ・ランゲージの問題)、川田(身体使用の日本・西欧・アフリカからの三角測量)、Ebi(身体部位名詞の使用)。

第二に時代的に見れば以下となる。明治以前の伝統的日本から主に資料を得ていたものが6編あった―Pandey、小秋元、小林、KyburzDolce、山中・岩月。また明治近代日本を中心に置いたものは4編である―相良、Cadot、安孫子、Oberlaender。さらに主に現代を問題にしていたものは4編である―Ackermann、川田、EbiSteineck。最後に文字通りに通史的であるものが1編あった―パップ。

第三に研究方法ということで言えば次のようになろう。文学史、美術史、思想史、社会史を含む、そして時に現代をも扱う、歴史的方法を用いていたものが圧倒的に多く11編あった―Pandey、小秋元、小林、Kyburz、パップ、相良、DolceCadot、安孫子、OberlaenderSteineck。それ以外では3編で言語学、文化人類学が方法として用いられていた―Ackermann、川田、Ebi。最も異色を放っていたのは、それ自身文学史に属するであろう能の所作の研究に、最新の工学的手法を適用したものであった―山中・岩月。 

以上の学際的にきわめて多様で多彩な内容が、‘公用語’としては日本語と英語を用いて発表され、また討議されていった。その内容を以下かいつまんで述べてみよう。

人体(human body)は、それ自らに備わる感覚器官が知覚する最初の対象であり、意識もそこに根付いている。知覚の対象として、人体はすでに文化的概念であって、人体の知覚も表象も使用も、文化によって異なっている。そして人間(person)や自己(self)の観念も、それが人体と不可分である限りで、文化によって異なったものになる。[KyburzAckermann、川田、Ebi]

西洋の概念に従えば、人間は明確に分かたれた二つの構成要素、すなわち、自我(精神、霊魂、心)と呼ばれる抽象的存在と身体とから成っている。人間が身体を対象として立てて思考し、観察し、使用しうるのは、この主観・客観の二分に依っている。西洋人は自らの身体(body)を観察する際に距離を置くが、そのような距離が客観的な精査に道をひらき、身体を科学の対象とすること(医学、体操、具象芸術、宗教思想、哲学、人類学)、また求める効果を生みだす道具とすること(声、音楽、踊り、演劇、労働、鍛錬、スポーツ)を可能としたのである。それと直面した近代日本については、独自の感じ方を維持しながらも、西洋の概念にむしろかなり上手に適応していったことが確認されている。[相良、安孫子、OberlaenderSteineck]

さて、それでは伝統日本では、人体そして人間はどう扱われていたのか。長大な『源氏物語』を通読するとき、西洋の読者は、主要登場人物たちの感情や物腰、振舞、声、しぐさ、表情のよくできた描写を得ることになる。しかし、いくら探しても、登場人物たちの身体の描写を見いだすことはないであろう。仮に絵巻を取り出し、身体の絵画的表現を吟味してみても、事はさして改善されないであろう。リアルな、それと認識される顔つきを探そうとして、彼が出会うのは、あいまいな、ただ約束事に従って描かれた表情なのである。人間はここでは身体というより、情動であり、「雰囲気」、物腰、佇まい、色合いであり、つまりは、読者の精神中に感覚知覚を通じて喚起されるものなのである。こうして西と東とでは、身体が、あるいは身体の一部が、知覚され、概念化され、表現され、使用される仕方は、根本的に異なっている。東では、身体(顔を別として)をことばで描写したり図像で表現する際、とかく、あいまいに、ただ約束事に従うことで済ませることが多い。他方、西のやり方では、反対に、個別化され、リアルで、的確であることが求められるのである。その根本的な違いは、身体を巻き込む他のあらゆる領域で確認される。すなわち、宗教上の信念や実践(清め、汚れ、死)、性差や社会性(衣装、しぐさ、態度、物腰)、治療法(不健康、病気)、舞台芸術、武術といった領域で確認される。それだけではなくもっと短命な現象、エロティックなあるいはセクシャルな行為、娯楽的な諸現象においてもそうなのである。[Pandey、小秋元、小林、Kyburz、パップ、DolceCadot、山中・岩月]

さらに精査を行なっていけば、同じく根本的な違いが、日本の近代化にもかかわらず、その近代日本を貫いて、やはり現代に至るまで維持されていることが確認されるのである。[パップ、Ackermann、川田、安孫子、EbiSteineck]

こうして、どのような角度を選びそこから身体を眺めても、たんなる表面的現れを超えた西と東との違いを、われわれは確認していくことになる。人体は、そして人間は、西と東とで異なったものとしてある。こうしてシンポジウムでは広く東西比較の視点から、日本における人体観・人間観のさまざまな現れが、さまざまに突き合わされ、吟味されていった。人間身体論の大きさと複雑さにもかかわらず、いやむしろその大きさ複雑さゆえに、今回のアルザス・シンポジウムでも、国際的でありかつ学際的であるという、国際日本学の方法論の力強さと有用性とが改めて確認されていったと考える。

 

【記事執筆:安孫子 信(法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授)】